ISLAM   〜ムスリムとして知っておくべきこと〜

『イスラームに関する質問 』

ムハンマド・ジャワド・シューリ


注:ウィルソン・H・グウェルティン(W)
     イマーム・シューリ(C)

   【質問19 来世】


W: 不滅に関する重要な問題について議論しましょう。
旧約聖書は来世について明白ではないので、ユダヤ人は死後の世界を強調しません。 新約聖書は来世について明確に述べていますが、一般にキリスト教徒は来世を信じます。 聖クルアーンはこの件を確かに教えていますが、来世を信じることがイスラームの
信仰の一つとされているかどうかについて知りたいと思います。



C: 復活はイスラームの大変重要な教義です。
人類が地球上から消え、神のみの知る日、各人は蘇えり、現世の行為に対する責任を問われる。 イスラームの啓典はそう断言しています。その定めの日、善行への報酬と
悪行への懲罰の判定を受けます。

「地上にある万物は消滅する。だが(永遠に)変わらないものは、尊厳と栄誉に満ちた
あなたの主の慈顔である。」(55:26‐27)

そして何時も言っていた。「わたしたちは死んでから,土と骨になり,本当に甦されるのでしょうか。 わたしたちの古い祖先も(甦されるの)ですか。」言ってやるがいい。
「そうだとも,昔の者も後世の者も。必ず一緒に召集されるのである。定められた日の,
定められた時に。」(56:47‐50)

W: 来世という概念は、人間の体験からは非常にかけ離れたものです。
肉体的に死んでしまった人間が精神的に永遠に生き続ける。
これを受け容れるのは容易なことではありません。
死後の世界の可能性を科学は否定することはできませんが、これを証明することも
できない。



C: 来世の概念は人間の体験を超越したものですが、道理に適っているともいえます。 一貫性を保つためには、この教義を受け容れねばなりません。
私達は神とその公正を信じます。偉力並びなき公正の神が、善人に報酬を与えないで放置し、 抑圧者を処罰しないというのは考えられません。莫大な数の善人が抑圧され、迫害を受け、報われることなく死んでいます。
同じく莫大な数の悪人、犯罪者、抑圧者、暴君が生き続け、現世で何の処罰も受ける
ことなく死んでいる。至大至高の公正なる神が、そういった悪人が懲罰から逃れ、善人が償われないというのを、 至大至高の公正なる神がお許しになるはずがありません。
神の公正を徹底的に遂行できる別の世界があるはずです。

聖クルアーンでは、来世の必要性は神の公正が基盤となっています。

「その日,人びとは分別された集団となって(地中から)進み出て,かれらの行ったことが示されるであろう。一微塵の重さでも,善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも,悪を行った者はそれを見る。」(99:6‐8)


W: その議論は不十分です。
良い議論ではありますが、要するに神が善人に報酬を与え、悪人を罰するという未来を期待すべきだと言っているにすぎない。この期待が現実のものかどうかの証明にはなっていません。本題の目的は、来世の必要性を証明するだけでなく、その来世が現実なのかどうかを証明することにあります。



C: 来世の存在を実物で証明することはできません。
来世は私達の視覚や体験を超越したものです。
自然の成り行きによる未来でもなければ、馴染み深い原因とつながった未来でもない。
来世には実体のある証拠が欠けるものの、間接的証拠はあります。

神の預言者たちは来世を予言してきました。その情報に私達は依存しています。
預言者たちの誠実さは、来世の間接的証拠です。私達がムハンマドといった預言者の言葉に依存するのは、 実体ある証拠によって預言者性が証明されているからです。
預言者は人びとに間違った情報を与えたり、過ちに導いたりはしません。
私達は預言者の現在に関した言葉だけでなく、未来についての言葉も受け容れなければなりません。彼が預言者であることを受け容れるのにその情報を疑うというのは矛盾しています。


W: クルアーンの観点からするとイスラームの信仰上、来世はどう重要なのでしょうか?


C: 聖クルアーンには、神を信じることの次に来世を信じねばならぬことを語った節が
数多くあります。神を信じることの次に何よりも重要なのが来世を信じることだと。

「本当に(クルアーンを)信じる者,ユダヤ教徒,キリスト教徒とサービア教徒で,
アッラーと最後の(審判の)日とを信じて,善行に勤しむ者は,かれらの主の御許で,
報奨を授かるであろう。かれらには,恐れもなく憂いもないであろう。」(2:62)

「かれら(全部)が同様なのではない。啓典の民の中にも正しい一団があって,
夜の間アッラーの啓示を読誦し,また(主の御前に)サジダする。
かれらはアッラーと最後の日とを信じ,正しいことを命じ,邪悪なことを禁じ,
互いに善事に競う。かれらは正しい者の類である。」(3:114)


W: ムハンマドは来世があることを人類に告げています。
その情報は明白かつ肯定的なものです。
このことについてムハンマドの前のイエスはいくらか情報を進展させました。
しかし、来世についてモーゼは完全に無言だったようです。
そこで疑問が湧いてきます。モーゼの書に来世に関する情報がないとは困惑します。
復活の教義がそれほど重大なのであれば、ムハンマドやイエスだけでなくモーゼにも
啓示があったはずだと思うのですが。



C: モーゼの書に語られていないからといって必ずしも神が来世に関する情報を
モーゼに授けなかったという意味にはならないし、モーゼがその民に来世の情報を
告げなかったことにもなりません。おそらくモーゼの五書は何らかの削除または
修正があったのでしょう。
聖クルアーンはモーゼが来世について次のように語ったと告げています。

かの信仰する人は言った。「人びとよ,わたしに従いなさい。正しい道にあなたがたを
導きます。人びとよ,現世の生活は束の間の享楽に過ぎません。本当に来世こそは
永遠の住まいです・・・・・・」(40:38‐39)

それからムーサーは,われ(との会見)の時のために自分の民を70人選んだ。
その時大地震がかれらを襲ったので,かれは言った。「主よ,あなたがもし御好みに
なったならば,(このことの)前に,かれらとわたしを滅ぼされたでしょう。
あなたはわたしたちの中の無知な者の行いのために,わたしたちを滅ぼされるの
ですか,これは,只あなたの試みに過ぎません。あなたは御望みの者を迷わせ,
また御望みの者を導かれます。あなたはわたしたちの愛護者であります。
それで,わたしたちを赦して,慈悲を施して下さい。あなたは,最も寛容な御方で
いらっしゃいます。またわたしたちのために,現世も来世でも,幸福を授けて下さい。
本当にわたしたちは,改峻してあなたの許に戻って来ました。」かれは仰せられた。
「われは,自分が欲する者に懲罰を加える。またわれの慈悲は,凡てのものに
あまねくおよぶ。それ故われは,主を畏れ,喜捨をなし,またわが印を信じる者に
それを授けるであろう・・・・・・」(7:155‐156)

また、聖クルアーンは預言者アブラハムが来世について明らかに語っていたことを
告げています。どのように死者を甦らせるのかを見せてくれるよう神に祈ったことが
伝えられています。

イブラーヒームが、「主よ,あなたは死者をどう甦らせられるのかわたしに見せて下さい。」と言った時(のことを思え)。 主は言われた。「あなたは信じないのか。」
かれは申し上げた「いや,只わたしの心を安らげたいのであります。」(2:260)


W: イスラームは各人が神のみ御存知の定めの日に生命は復活すると教えていると
いうことですが、この定めの日が「審判の日」ということですね。
では、現世と来世の間の長い期間について質問します。
死んでから審判の日までの間、人間は何らかのかたちで生き続けるのでしょうか? 
それとも、死の時点で完全に消滅してしまうのでしょうか? 
クルアーンは我々が死んでから復活の日までの間をどのように説明しているのですか?



C: イスラームは人間の魂が死で消滅するものではないと教えています。
肉体的な死と復活の間の長い期間、魂は継続します。復活のために必要です。
死によってその人間の生が完全に終ってしまえば復活は考えられません。
復活とは死者を甦らせることです。
死後、完全に消滅すれば、その同じ人間を甦らせることはできません。
死ぬ前の自分と審判の日の自分。二種の存在があるはずです。
二つは完全な非存在によって分けられる。
審判の日の存在と死ぬ前の存在が同じということはありえません。
異なるものであって同一ではない。
審判の日の存在が死ぬ前の存在と似ているとしても、同一ではないでしょう。

ひとりの人間の復活は、その人が何らかのかたちで死後も継続されていなければ
実現できません。そうでなかったなら、審判の日に復活したその人は、死ぬ前とは
別人になってしまいます。死後も継続していなければ、復活の目的自体が失われて
しまう。

来世の目的は善行をした者に報酬を与え、悪を行った者を罰することにあります。
死後、人間が完全に消滅すれば、報酬や懲罰を受けることはできない。
審判の日、復活させられた人は、死ぬ前と同じ人ではなくなってしまう。
なぜなら現世で善行しようが悪行しようが関係なくなるし、死ぬ前に生きていた人とは
別人になってしまう。

このように、来世に関するクルアーン節から理解されねばならいのは、審判の日まで
人間は霊的存在として継続するということです。聖クルアーンはこの点を明確に
語っています。

アッラーの道のために殺害された者を,「(かれらは)死んだ。」と言ってはならない。
いや,(かれらは)生きている。只あなたがたが知らないだけである。(2:154)

かれらの同胞(の戦死)に就いて,「かれらがわたしたち(の言)に従って,座視して
いたら,殺されなかったものを。」と言う者がある。言ってやるがいい。「もしあなたがた
の言葉が真実ならば,あなたがたは,先ず自分で死から免れてみなさい。」
アッラーの道のために殺害された者を,死んだと思ってはならない。いや,かれらは
主の御許で扶養されて,生きている。かれらはアッラーの恩恵により,授かったものに
満悦し,かれらのあとに続く(生き残った)人たちのために喜んでいる。その(生き残った)人たちは恐れもなく憂いもないと。(3:168‐170)


W: 来世に同意する人たちの間で相違があります。来世は霊的存在のみと信じる人と、復活の日、人間は魂だけでなく肉体も甦らされると信じる人とがいます。イスラームはどう教えていますか?


C: イスラームはこの点が大変明瞭です。
審判の日、人間は魂だけでなく肉体も復活するのだと教えています。
人間は魂だけの生き物ではありません。
本物の人間を再創造するには肉体と魂の両方が必要です。
そうでなかったら人間ではなく天使のようなものになってしまいます。

魂だけでなく肉体の復活であるという理由がもう一つあります。
肉体の再現なくして復活の概念自体が成立しなくなる。
死後も人間の魂は継続するので、復活は魂の再創造を意味しません。
魂は死なないのですから。従って、復活が来世の魂だけであるというのはおかしい。
魂は継続しているのですからそれを復活させるということはありえません。
復活が可能なのは再創造があるからです。
すなわち崩壊した肉体を継続する魂と一体化させること。これが復活の意味です。
クルアーンの言葉はこの点が大変明瞭で、他の解釈はできません。

そしてラッパが吹かれると,かれらは墓場から(出て),主の御許に急いで行く。
かれらは言う。「ああ,情けない。わたしたちを臥所から呼び起こしたのは誰でしょうか。 これは,慈悲深き御方が約束なされた通りではありませんか。使徒たちの言葉は真実であったのですか。」只一声鳴り響けば, 一斉にかれらはわれの前に召し集められる。(36:51-53)

だからあなたは,かれらから遠ざかれ。召集者が嫌われるところへ呼び出す日。かれらは目を伏せて, 丁度バッタが散らばるように墓場から出て来て,召集者の方に急ぐ。
不信心者たちは言う。「これは大難の日です。」(54:6-8)


W: 肉体の復活という概念自体が難解です。人食いが人間の体を食べたとする。
食べられてしまった肉体は食べた人の肉体に溶け込んでしまう。
審判の日に復活したのは食べられた人なのか、食べた人なのかわからない。
或いは、人が鳥などの動物に食べられたとします。
食べられた肉体は食べた動物に溶け込みますが、その場合、審判の日には何が
復活されるのでしょう? 動物? 食べられた人間?



C: 食べられた肉体と食べた側の肉体は完璧に融合しないでしょう。
復活には体のすべての要素は必要ありません。食べた側の肉体に完全に溶け込んでいない限り、それぞれの肉体の再構造は可能でしょう。

もっと言うと、全知全能の偉力並びなき主であれば、食べた側と食べられた肉体を区別して再創造できます。

区別が不可能だと仮定しても、失われた肉体とは別の要素で再創造し、審判の日、
それを魂と一体化することは神には可能です。


W: 人間の魂は単一のもので不可分だと教える宗教があります。
これに同意する哲学者もいます。イスラームもそのように教えているのでしょうか? 
違う教えがあるのでしょうか?



C: クルアーンはそのことについては語っていません。
魂の単一性、不可分性、不変性を肯定もしていなければ否定もしていません。
また、人間の魂が物質だとも非物質だとも述べていません。
こういった側面については完全に無言です。
実際、そういった疑問をすべて退けています。 魂については人間の知識を超えており、答えがわかったからといって宗教目的の達成にはなりません。
聖クルアーンにはこうあります。

かれらは聖霊に就いてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。「聖霊は主の命令によ(って来)る。(人びとよ)あなたがたの授かった知識は微少に過ぎない。」(17:85)


W: 人間が死んだ後の魂は別の人間や動物などに生まれ変わると教える宗教があります。イスラームには輪廻の概念になんらかの同意はあるのでしょうか?


C: 輪廻を聖クルアーンは明確に否定しています。
死んで肉体から離れた人間の魂が、なんらかの形をとって再び現世を生きることは
できません。クルアーンにはこうあります。

だが死が訪れると,かれらは言う。「主よ,わたしを(生に)送り帰して下さい。わたしが残してきたものに就いて善い行いをします。」決してそうではない。それはかれの口上に過ぎない。甦りの日まで,かれらの後ろには戻れない障壁がある。(23:99-100)

聖クルアーンは、人間の魂がこの地上で二度生きることはないと語っています。
人間か非人間かに関係なく別の生命体として生きることはできない。
観察可能な事実がこれを証明しています。もしも新たな人間に生まれ変わるとすれば、
人間の魂は一つの体に一つなのだから人口は増加しないはず。
前世紀の人口は約10億人、今の人口は約50億人。新しい魂が創造されていないと
すれば、40億人の増加はどう説明できますか?
輪廻が本当だとすれば、人口は二人を超えることはなかったはずです。
人類のはじまりはアダムとイブの二人なのですから。



blue-a5.gif(1025 byte) 質問20 イスラームの戒律       



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